
はじめに
教員不足により教師の質の低下が問題になっていますが、受験勉強を経験していない先生が増えてきています。そのため、何を目指したカリキュラムなのか?この時期に何のための宿題なのか?と考えさせる状況になっています。では、なぜ受験勉強を知らない教員が増えたのでしょうか?
教員免許を保有していても必ずしも教育のプロと言えません。なぜなら、大学の単位を取得しながら教育実習などに行けば良いだけで、採用試験はあるが講師や私立高校(一部)では筆記試験を課されずに授業ができます。では、本当に簡単に免許は貰えるのでしょうか?
教員免許は大学の授業数が増えることを我慢すれば簡単にとれる。ただし、科目によって授業数の+αの多さは変わります。もっとも大変なのが「理系科目>社会>英語・国語」ではないでしょうか?まず、理系は学部の授業自体が忙しいことから余分な科目をとる時間がない場合あります。また、社会の場合は地理歴史科と公民科と基本的に2種類の免許を同時取得することになるんで免許取得までの単位数が大幅に増えます(*実際に、卒業時は192単位も授業をとっており一般教養は1年以外で採る余裕はなかった)。一方で、国語と英語は学部の必履修科目と教員系の科目が重なることが多いので負担は少ないです。ただ、大学の授業で単位をとれば良いだけなので煩わしいが決して難しくない。
また、難関大学であれば授業の難易度は高く、他学部の必修授業を受ける必要もあるので苦労しますが、Fランクの大学であれば授業内容も簡単で簡単に単位は取得できる可能性があります。確かに、理科と数学の免許を保有していた教員がいましたが、なぜ2種類も免許が在学中にとれるか不思議でした。残念ながら通常授業ですら一杯一杯の様子だったので簡単に免許をとれると感じたことがあります。さらに、難関大学であれば教職を選ばなくても有名企業から内定をもらえる可能性が高いこともあり、あえて教員を目指す価値を感じない人が多くなっている気がします(*昔は一般企業も労働環境が悪いなど格差は少なかったが、最近は大企業ほど労働環境が改善されているため収入面・労働環境面で優れているのを諦めて教員を選ぶでしょうか?)
結局は教員の質の低下は避けることはできないだけでなく、一般入試を経験していない教員が増えていくことになります。
教員の働き方が問題になればなるほど、教員の学力に不安があることが露見しているように感じます。なぜなら、たとえ専門科目であっても単に教科書内容を教えるだけでなく、過去問などを解いて受験に必要な知識を更新していく必要があります。しかし、教員の働き方を聞けば聞くほど授業以外で過去問を解いたり、知識を深めるための時間がつくれないことを感じます。実際に、授業準備もロクにできないと嘆いているシーンは良く見ます。そのため、教科書を教えることはできる(*指導書もあるので板書など誰でもつくれる)が、それだけに終わっている可能性があります。
実際に、小学校でさえ授業についていけない生徒を学習塾に行くことを勧めるケースもあり、高校受験は学習塾ありきの授業になっている状態です。例えば、中学3年生で学習する二次関数・相似・空間図形・円周角が2学期期末試験と学年末試験で出題されている様に学校の授業では高校入試に対応できないケースが多い。それが大学入試になると、より深刻になってしまい学校外で受験指導が当たり前になっている高校生も多い。
では、なぜ教員が受験指導が出来なくなったのでしょうか?
①そもそも受験レベルでの指導ができない。なぜなら、たとえ専門科目であっても受験勉強を経験していない場合(*もしくは難関大学に合格していない)であれば、受験指導できるレベルに達していないことがある。もちろん、自己研鑽していけば問題はないのですが、通常の授業準備すら時間がとれないなら+αの準備を期待するのは酷ではないでしょうか。結果として、過去問を解けるかどうかでさえ怪しい教員がたくさんいることになります。
②受験を知らないが受験を語る人たちの存在。受験関連の本や情報は多く入ってきますが、それらの情報を落とし込んで自分たちの生徒に有効かどうかを考えるのですが、受験の評論家になってしまう人たちがいます。そのため「〇〇高校では△△という取り組みをしているから成果が上げているのに、うちは何もしない」など不満は言います。ただ、記事に掲載されている内容と現実は大きく違いがあり「記事:食堂を回収して綺麗になり満足、教職員の本音:掃除が大変になり使い勝手が悪くなって不満が多い」となるように理想論と現実は違います。それにも関わらず、受験指導をしていない人が受験指導を語ることがあります。結果として、勉強の取り組み時期、勉強の姿勢、授業の調整など何も考えていないことがあります。例えば、新コース設置の際にカリキュラムを検討する会議で3年生でコースの生徒には受験に不要な科目があったので、受験に必要な科目を設置した方が良いと提案したが却下されたことがあった。理由は一般教養を身につけるのに必要という理由(*ただ、理系メインの授業で古文が高校3年生で必要なはずはない)。結果、高校3年生になって「なぜ、この科目があるのか」となり、翌年にカリキュラムが変わっていたことがある。このように、受験指導の仕方がわかっていないにも関わらず、現状を無視した理想論で受験の方針を決めることがある。
③教員の圧倒的な時間不足が問題。教員の仕事量が増加している一方で、大学受験などは入試の多様化により受験パターンが多すぎます。そのため、ただでさえ時間がない中で個々に対応していくことが限界になっている場合があります。進学校であれば一般入試が中心で、中堅以下の高校であれば推薦入試までかもしれませんが、場合によれば6月~3月までクラスの誰かが受験・入社試験などを受けていることがあります。さらに以前より、個別に対応することが増えたことで物理的な時間が不足しています。そのため、時間の余裕のなさが適切な受験指導を難しくさせているかもしれません。
受験指導で問題となるのは「評論家になる先生」の存在です。これは、どの場面でも言えますが評論家として良い・悪いを判断するだけで何もしていないと感じることはないでしょうか?例えば、生徒一人一人の個性に合わせて指導すべき…と簡単に理想を述べる人もいますが、40人程度いる学級で一人一人の事情に合わせて何かを指導することは可能でしょうか?結局は、試行錯誤しながら行動している先生が一番信用ができます。そのため、受験指導しているが、「成績を上げているわけではない」「過去問研究をしているわけではない」「授業の質が高いわけではない」などのケースもあります。この様な評論家の先生や時間に余裕がない先生が増えると生徒の学力は伸びづらくなるでしょう。